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フス戦争(英:Hussite Wars または Bohemian Wars)は、ヤン・フスの開いたキリスト教のプロテスタントであるボヘミアとポーランドを中心とするフス派信者と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間で戦われた戦争。
経緯フス派戦争以前のフス派の戦い1410年に行われたポーランド王国・リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団との戦い(グルンヴァルトの戦い)ではボヘミアから来た7000人のフス派義勇兵がヴワディスワフ2世率いるポーランド軍の援護についた。19世紀プロイセン王国の歴史家ハインリッヒ・フォン・トライチケはこのときのことを「(フス派は)神の軍についての野蛮なチェコ人の歌を歌いながら(バルト)海に挨拶し、海水を瓶に入れ、バルト海が再びスラヴのものになった記念とした」と描写し、ドイツ民族に対抗したスラヴ民族のこの時代の連帯を認めた。 戦争の始まり1419年、第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス派戦争が始まった。マスケット銃の発明により、フス戦争はヨーロッパ史最初の手銃器を使った戦いと言われる。1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した銃器と戦車(馬車の一種)とそれを活用する戦術によって、当時の騎士による突撃戦術を完膚なきまでに打ち破った。ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく、市民軍の原型のような軍隊を作り上げた。ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度もフス派に対する十字軍を組織したが、ことごとく打ち破られた。1431年に行われた対フス派十字軍では、ポーランド王国から6000人のフス派義勇兵がやってきてボヘミアのフス派を支援した。この十字軍では、対陣中にフス派が聖歌を歌いだすとフス派軍の突撃を恐れた十字軍がたちまち壊走した、という逸話が伝えられている。 戦争の収束1434年、ボヘミアのフス派の間では内部抗争が起こり、リパニ(Lipany)の戦いで大プロコップと小プロコップが率いたターボル派がウトラキストいう派閥によって壊滅させられ、皆殺しになった。さらに1439年、既に王が代替わりしてヴワディスワフ3世となりフス派と敵対していたポーランド王国でも、グロトニキ(Grotniki)の戦いでポーランドのフス派が敗北し、これによってフス戦争は終わった。 その後の運命その後もウトラキストの系統が分派しプロテスタント諸派としてボヘミアで根強く政治的影響力を保ち続け、1458年にはラースロー5世ことハプスブルク家のラディスラフの死後、プロテスタント系ボヘミア貴族の子であるイジー・ポジェブラトをボヘミア王に擁立し、ハプスブルク家を中心とする勢力はハンガリー王フニャディ・マーチャーシュを1469年にボヘミア王に擁立して互いに対立した。 1471年にイジーが死ぬと、プロテスタント貴族によってヤギェウォ家のポーランド王カジミェシュ4世の息子ヴワディスワフが迎えられ、ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーとしてボヘミア王に即位した。ボヘミア王を主張し続けたマーチャーシュが1490年に死ぬと、ポーランドから来たボヘミア王ヴラジスラフはハンガリー王ウラースロー2世としても即位し、ボヘミアとハンガリーの王となった。以後ボヘミア王国ではプロテスタントが認知され、しばらくの間安定した。 1620年、白山の戦いでスラヴ人かつプロテスタントであったチェコ貴族が全滅させられ、ドイツ人かつカトリックであった貴族が支配者としてチェコに入ってきた。以後チェコは完全にドイツ人の支配下に入る。一部のプロテスタント貴族やその追従者は必死で逃げ延び、宗教的に寛容で当時は特にプロテスタント運動が盛んだったポーランド王国に亡命した。 18世紀後半に入ってポーランド王国がポーランド分割によって滅亡すると、多くが新天地を求めてアメリカなどへ移住していった。 フス戦争の戦い
文献
外部リンク
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