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ジョージ6世(George VI, Albert Frederick Arthur George Windsor, 1895年12月14日 - 1952年2月6日)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)ならびに海外自治領(The British Dominions beyond the Sea)の国王(在位:1936年12月11日 - 1952年2月6日)、インド皇帝(在位:1936年 - 1947年)。現女王エリザベス2世の父。
生涯王子時代ジョージ5世と王妃メアリーの次男として生まれる。兄にエドワード8世、妹にヘアウッド伯爵夫人メアリー、弟にグロスター公ヘンリー、ケント公ジョージらがいる。名前のうち、ファーストネームであるアルバートは、彼の曽祖父であるアルバート(ヴィクトリア女王の夫)に因んだものだった。 海軍軍人として、1909年からオズボーン海軍兵学校、1911年からはダートマス海軍兵学校でそれぞれ教育を受け、1913年9月15日に海軍少尉候補生となる。第一次世界大戦に従軍し、1916年のユトランド沖海戦時には戦艦コリンウッドに乗艦していたものの、十二指腸潰瘍による体調不良から、主だった活躍をする事はなかったという。1918年に空軍へ籍を移し、終戦時には、フランスのナンシーに置かれていた独立空軍の本部のスタッフとして務めていた。 戦後の1919年の1年間は、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで歴史学や経済学、政治学を学んだ。翌1920年にヨーク公の爵位を賜って以降は、産業福祉会の会長を務め、工場等における労働条件を改善する為に精力的に活動し、“産業公爵”と呼ばれる様になった。1923年には、3度の求婚の末にストラスモア伯爵家からエリザベス・バウエス=ライオンを妃に迎え、4月26日にウェストミンスター寺院で挙式を執り行った。後に、エリザベス王女(のちのエリザベス2世)とマーガレット王女の2女をもうける。イギリス王室の結婚は当時から国内外を問わず話題となったが、大らかで優雅な雰囲気を持つエリザベスは特に国民から愛され、これに伴いヨーク公の人気も非常に高いものとなった。 1936年、兄エドワード8世がウォリス・シンプソン夫人と結婚するために同年12月に退位したため(王冠を賭けた恋と呼ばれた)、国王となる。この事態を最も恐れていたのがヨーク公自身であり、即位が正式に決まった際にはルイス・マウントバッテンに対して「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見た事なんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやった事の無い人間なんだよ」とぼやき、兄の退位の前日にもロンドンにいる母のもとを訪れ、子供のように泣きじゃくりながら愚痴をこぼしていたという。 国王時代ヨーク公は、1936年12月12日にセントジェームス宮殿で「ジョージ6世」としての即位式、1937年5月12日にウェストミンスター寺院で戴冠式をそれぞれ執り行い、王位に就いた後は国王としての義務と責任を誠実に実行した。即位した当時のヨーロッパでは、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニといった全体主義勢力が幅を利かせる様になっていた。イギリス国内では、対外的な政治的緊張を緩和するために、ネヴィル・チェンバレン首相が主張するナチス・ドイツに対する宥和政策が支持されるようになり、1938年9月29日のミュンヘン協定締結に伴い、第一次世界大戦の時の様な苦しみを国民に味わいさせたくないと考えていたジョージ6世もこれを支持した。 しかし、翌1939年にドイツがミュンヘン協定を反故にしてチェコを併合した事から、チェンバレン首相に対する逆風が強くなり、ジョージ6世も対独姿勢を変更せざるを得なくなった。この事から、反ナチスに徹する事を決意した夫妻は、同年にニューヨーク万国博覧会出席の為、5月にカナダ、6月にアメリカを訪問した際には、両国に対独共闘を呼びかけた。そして帰国後の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻した事から、2日後の9月3日にフランスと共にドイツに対して宣戦布告を表明した。 第二次世界大戦が始まると、1940年9月のロンドン空襲で命を落としかけるも、「国民が皆危険に晒されているのに、その君主である自分達が逃げ出す訳にはいかない」として、側近の進言を押し退けてロンドンから疎開せず、イギリス国民の先頭に立ってドイツ空軍による空襲に耐えた。王と王妃は「必要とあれば最後まで戦う」とまで宣言し、内外でドイツ軍によるイギリス本土への侵攻が懸念されているにも関わらず、拳銃を手にバッキンガム宮殿に留まり続けた。また、自ら最前線まで視察に出向くだけでなく、ドイツ空軍によって破壊された国内を訪問して親しく国民を慰め、勇気づけた。他にも、元々吃音がある事から、普段から内向的で口数が少なく、公の式典などで挨拶したり、放送局のマイクを前に話をする事が非常に苦手であったにも関わらず、王妃と共に幾度となくラジオ番組に出演し、前線の兵士や地下抵抗勢力に激励のメッセージを送り続けた。戦時中、民間人の勇敢な行為に対してこれを称揚するためジョージ勲章が創設された。 ジョージ6世は生来両足にギプスを常用しなければならないほど病弱であったが、生真面目で誠実な性格であったとされ、奔放な兄とは正反対であったらしい。その性格が、王妃と共に第二次世界大戦中のイギリス国民を大いに勇気づけ、国民からは「善良王」とまで呼ばれるようになった。ジョージ6世の治世が王室と国民がより親密な関係になるきっかけとなり、国土は疲弊しながらも戦勝へと「精神的」に導いたと言っても過言ではない。 だが、戦後の疲弊した国内経済の建て直しや、インドの独立容認などの激務に追われ続け、国王としての責務と重圧から健康を崩してしまう様になった。1947年には体調不良をおして南アフリカ連邦やローデシアなど、人種差別問題が深刻な地域を訪問したが、翌年のオーストラリアとニュージーランドへの訪問を控えて動脈硬化症を発病し、訪問日程が取り消された。加えてヘビースモーカーであった事から肺癌まで発病し、この事からジョージ6世は完全に健康を回復する事が出来なくなってしまった。1951年9月に左肺を切除摘出してからは、一時的に小康状態を保ち、回復に向かうと見られていたが、1952年1月31日に長女のエリザベス王女と夫であるフィリップがオーストラリア、ニュージーランド、ケニアへ訪問するのをヒースロー空港へ見送りに出かけた後、療養を兼ねて狩猟やスポーツを楽しむ為に訪れていたノーフォークのサンドリンガム御用邸で、2月6日未明の就寝中に冠状動脈血栓症により死去した。56歳没。王妃エリザベスは、王が急逝した原因の1つに、身体が生まれつきあまり頑丈ではないのに王位を継ぐ事になり、心身とも疲労した事があるとして、ウィンザー公夫妻を終生許さなかったという。 称号
ヨーク公の紋章
エピソード
ロンドンのカールトン・ハウス・テラスにあるジョージ6世の銅像
関連項目
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